先日、無人販売所で柿を買った。
100円。
販売「所」、というにはあまりにも簡素な木組みの棚に、3個の柿が袋詰めされていた。
値札が貼られ、側には円柱形の貯金箱。
どこの地域もこんな造りだろうと思う。
「これこそ文化。」
そう思いながら財布を開く。
(ちなみに私はアブラサスではない!※10/26の投稿参照アブラサス「小さい財布」学生目線のレビュー - 履歴書、風呂なし、生乾き)
中には100円玉が無かったが、10円玉が10枚程入っていた。計画性の無さがここにも。
(アブラサス買おう!)
いざ購入へ。
箱に入れる前、念入りに確認する。
「1、2、3、4……10、と。よし。」
その時はなぜか1枚でも少なかったらいけないような気がした。
間違ったらいけないのは当たり前。
ただ、過剰に意識してしまった。
思えば小学校の時分に、道徳の授業(ポストゆとり世代)で無人販売所の内容を読んだ。
とても怖かった印象がある。
物語の冒頭、小学校からの帰り道で、魔が差した少年が無人販売所の野菜を盗む。
少年はとてつもない速さで帰り道を駆ける。
その息づかいまで挿絵から聞こえる。
私は人生初の「犯罪」を目撃した。
結末こそ、謝罪も含め野菜を返しにいくということで、一件落着のように思えるが、感じた怖さとはその「可能性」だ。
「自分もそうなるかもしれない」
「盗んでしまうかもしれない」
当時はこうして言葉にすることはできなかったが、この自分の「危うさ」を確かに感じていた。
柿を買う前、TSUTAYAさんで借りて映画を観た。
岩井俊二監督の2001年公開作品
『リリイ・シュシュのすべて』。
中学生の凄絶な「いじめ」を描き出した作品で、彼らのイヤホンからは、一定のファンから神格化されている歌手「リリイ・シュシュ」の歌声が流れる。
学校のレポートにつかう資料として鑑賞したのだが、中学生の「いじめ」のリアルさ、映像の美しさに息を呑んだ。
まだ観たことのない方はぜひ。
作品では主人公の友人がある時を境に「いじめ」のリーダーとなる。その変身の振り幅、その呆気なさに考えさせられた。
「こうなっていたかもしれない」
子どもは脆く純粋で透明で、とても染まりやすい。そして、その契機はそこらじゅうに転がっている。
あの教科書の少年はどうして野菜を盗んだのか。魔が差したなら、それだけの理由が無意識下にあったのかもしれない。
悪魔はそこらであぐらをかいている。
購入し、見上げると奥に大きな柿の木があった。
その下には年季の入った家屋と、「新鮮野菜」の立て看板が見える。
少しは成長したのかもしれない。
中途半端に汚れたのかも。
新しい財布も買わないと。
バックもないので手で持ち帰る。
柿は渋かった。